【追記…】

 

新聞を開いて、まずお悔やみ欄を見るのが習慣になってしまった。

 

 

 

 

 

 

甥っ子の結婚式の招待状が届いた。

やんちゃ坊主の記憶しかないあの子が所帯を持つ。

時の流れを感じるが、こんな嬉しいことはない。

 

だけど、いきなり車椅子姿の私を見せるわけにはいかない。

お祝いの品を送って欠席の返信をした。

 

 

少しして、結婚式の様子を知らせる写真が届いたが、そこには母の姿はなかった。

おばあちゃん子だった甥っ子なのに…

 

 

 

 

あの騒動の時、父の1番下の弟にあたる叔父と少しだけメールのやり取りをしたことがある。

 

妹家族と母は完全に断絶状態だという。

それだけショックが大きかったのだろう。

 

父方の親戚とも断絶状態の様子。

こちらもショックだったのだと思う。

だけど、母と同じ時代を生きてきた父のきょうだい達は、時間が経つにつれ、少し怒りが緩んできたように思う。

私の長い間の数々の無礼も許されることになった。逆に同情的だったりする。

 

今思えば、私があの時の電話を黙っていた事や、気づいていたのにずっと放っていた事は、同罪だったのかもしれないと思ったりする。

 

 

 

騒動の頃、まだ母があの家にいた時に母宛に何度か手紙を送った事がある。

しかし、一度も返事は返って来なかった。

 

 

 

父の介護生活が続いていた頃、入院が長引き、

母は父の病室につきっきりで寝泊まりしていた。

 

わたしは、付き添いの母の為に、できる限り出勤前に温かい弁当を届けていた。仕事帰りに空の保温弁当箱を受け取りに病院に立ち寄っていた。その事を親戚たちに伝えていたらしい。

「明日も来れる?」と心待ちにしていたこともうかがえる。ほんの1〜2ヶ月の間だった。

 

 

騒動の少し前、母の節目の誕生日にネットを通じて母の好きな花を送ったことがある。

 

長持ちする花でもあり、長い間床の間に飾り、凄く喜んで皆んなに自慢していたらしい。

「娘から送られてきた」と。

母と顔を合わせなくなって、かなり時が経っていたのに。

 

 

年下の男さえ現れなかったら、あのまま知られずに平和な日々が続いていたのかもしれない。

 

今、どんな思いで、どんな暮らしをしているのだろう。

あんなにいがみあっていた親子なのに…

連絡が取れなくなった今、ふっと思うことが多くなった。

 

母の人生はなんだったのだろうと。

20歳ちょっとで嫁に行き、70年近く…

 

母は存命なら、今年90歳になる。

 

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[14]可愛いおばあちゃんになる

初めの二週間はしんどかった。

入れ替わりで看護師さんが部屋にやってくるけど、みな同じ人に見える。

 

 

 

4日目からリハビリが始まったが、慣れているはずの歩行器で、上手く歩けない。

 

今は、安静に…では無く、寝たままだと筋肉が衰えるので、できるだけ動くようにと言われるようになった。

この病院の方針でもあるようだ。

 

 

 

 

1か月近く経った頃、

歩行器を使って割とスムーズに歩けるようになった。

 

リハビリルームの何人かの理学療法士さんの顔も認識できるようになった。

 

 

そのリハビリルームでのこと。

ある日、初めて見る顔なのに、とても穏やかな笑顔を投げかけてくる80歳過ぎと思われる可愛い女性に出会った。

 

きっと誰にでも同じような笑顔投げかけているのだろう。

言葉を交わしたわけではない。

お喋りな人でもなさそう。

病院に居るということは、どこか患っているはず。

小さな体なのに、その人がいるだけで広いリハビリルームが穏やかな空気に包まれる。

 

 

 

そういえば、うちの祖母も穏やかな笑顔を醸し出していた。

 

 

 

夫はガスコンロの火のつけ方も電子レンジとグリルの違いもわからない、冷蔵庫の野菜室の場所もわからない人だった。

 

私がこの病気になってからも、私から言われたことしかしない人だった。

 

それが、今では調理、買い物、その買い物した物を冷蔵庫やストック棚に収めたり、日々の献立まで全部やってくれる。

 

 

不本意だが、あの騒動に夫を巻き込んでしまった。

 

夫は平日に休みのあるシフト制の仕事に変わってくれた。

何もしなかった夫がマメになったのは、あの騒動があってからのように思う。

 

 

今回の入院騒ぎも、最初は勝手が分からず、着替えや小物など持って来てとお願いして度々来てもらっていた。

 

その後は「無理しなくてもいいよ。明日も仕事早いんだし」と伝えているのに、休みの度2〜3日に一度は来てくれる。

仕事が休みであれば、日を空けずに連日来てくれる。

 

どちらかというと、淡白な人だったはずだ。

きっと、母に似て歳取っても油断ならないと思ったのだろう。

 

 

大丈夫!

私は、家いた父方のおばあちゃんの血もひいている。

 

 

スパゲッティを茹でることさえできない。

何もできなくなった私。

 

できることといえば、あの日見た女性と同じ笑顔でいること。

 

私もきっと可愛いおばあちゃんになる。

 

 

 

ある冬の日の午後。

米農家は、農閑期になり穏やかな時間が流れる。

暖かい日差しが差し込む縁側で縫い物をする祖母がいて、かたわらで飼い猫がその糸にじゃれている。

 

 

その日の祖父は、いつものコタツの一片を陣取りドーンと構えていた。  

 

しかし、その日の祖父はいつもの姿と違っていた。

両腕を台の上にあげ、手のひらは斜め向かいの祖母の方を向いていた。

 

その手には束になった糸がかけてあり、向かいの祖母が丸く巻いていた。

 

糸が片方の手に来ると、チョコンと親指を曲げる。もう一方の手の方に来ると、又その親指をチョコンと曲げる。

 

要は、祖父が糸車になっていたのだ。

かたわらで幼いわたしは何かしらで遊んでいたと思う。

 

喋れなくなり、歩けなくなった祖父だけど、それくらいはできる。十分役に立っている。

 

どういう経緯でそういう形になったのか、覚えていないけど、

そこには確実に穏やかなあたたかい時間が流れていた。

 

 

 

[13]スパゲッティの悲劇

車椅子生活になった現在、一昔前とガラッと世の中が変わり、ずいぶん暮らしやすくなった。

便利な家電やグッズ、外に出ればバリアフリーの施設が圧倒的に多く、車椅子の私を見れば周りの皆んなが優しく接してくれる。

 

夫の理解も大きいと思う。

1番ありがたいのが、料理にうるさくないこと。

嬉しいことに冷凍食品や惣菜がかなり美味しくなった。コンビニの食品も電子レンジ調理もばかにならないほど美味しい。 

 

ただ、これらは夫でもできる。

私のできることは何も無い。

私のいる意味があるのだろうか?と悩んだりする。

 

そうだ、スパゲッティを茹でるくらいなら私でもできる。

 

市販のソースを使ってスパゲッティを作ろうと思った。

取ってのついたストレーナーを使えば、私でも作ることができる。

 

パスタを半分に折るが、それでも雪平鍋になみなみとお湯を沸かさないといけない。

 

 

何年か前に憧れのガラストップガスコンロに変えた。

掃除が楽、目安の時間に自動消火できたり便利な機能がついているけど、炎の中心に鍋を置かないと傾きやすい。

 

 

 

お湯が沸騰した。

塩を入れようと手を伸ばした瞬間、雪平鍋の柄に手があたった。

直後に鍋がガタンと傾き、右手足にジャーッと沸騰したお湯を浴びてしまった。

 

手は半袖シャツ着てたせいもあり、すぐにキッチンの蛇口の水で冷やしたが、沸騰したお湯の威力は強く、

足はジャージを履いていたのと、冷たい水をかける風呂場まで行く時間で少し遅れたせいもあり、かなり重症。

 

夫が救急車を呼び、火傷に権威のある病院に搬送され、そのまま入院となった。

[12]母から受け継いだもの

母は頑張り屋だったが、それは母にとって普通のことだった。

常に動いていて、ジッとしていることができない。

私のジッとしていることができない性格はこの人から受け継いでいたと思う。

 

そして誰とでもすぐ仲良くなれる社交家でもあった。それは老若男女を問わず。

私も誰とでもすぐ仲良くなれるので、そういうところは母の血かなと思う。

 

でも、それだけと信じる。

好きになっちゃいけない人だとわかればシャッターを下ろすことができる。

何より、不本意な結婚など絶対しないと決めている。

 

 

 

 

不本意な結婚。

母には、根本にそれがあったのかもしれない。

楽しみなことが一つもない。

財布は舅が握っている。やりがいもない。

褒めてくれる人もいない。

父には長男ゆえに結ばれることのない想い人がいたらしい。なので、心は母の方を向くことは無かった。

 

唯一、癒されるはずのわが子も姑に取られたという。

そういえば、いくら記憶を辿っても祖父母に育てられたという思い出しかない。

幼い頃は、テレビの相撲を観てた祖父の膝の中で遊び、

お風呂は祖母と一緒に入り、夜は中学になって自室を与えられるまで、祖母のお布団で毎日一緒に寝てた。

そういった生活が当たり前で日常になっていた。

 

 

そんな中で、少しでも優しさに触れることが有れば…と思ったりする。

 

 

 

高校生の頃、あれ⁈母の言動が変だなと思うことが複数回あった。

でも、大人の世界に首を突っ込んでいけないという空気があり、気にしないことにしていた。

 

 

一つ気になっていることがある。

 

母方の祖父が亡くなる前、その祖父はボケたと聞いた。

 

祖母が他の男と関係を持ったと殴りかかったのである。

おじいさん、おばあさんと言われて当たり前の年齢の頃だ。

誰もが、そんなことはありえない。祖父はボケたと言って疑わなかった。

 

 

 

もし、祖父の言っていたことが本当だったとしたら。

今回の母の騒動を思ったら、無い事ではないかもしれない…と思い始めている。

だとしたら、あまりにも祖父が不憫でならない。

 

[11]わたしの思うこと

年下の男より、身体の弱い父に代わって永い間この家に頻繁に出入りしてた父の姉の旦那様とできてたことの方が問題になった。

 

伯母さん夫婦は地域や学校の役員をやっていたり、いろんな世話役を買って出ていて信頼を得ていた。

おじさんに至っては、町内の行事の司会を務めたり、ちょっとした有名人だった。 

おしどり夫婦としても有名で、あの当時珍しく大恋愛で結婚した奥さんのきょうだいの為に尽力している働き者としても崇められていた。

 

その奥さんである父の姉は、既に亡くなっているが、晩年は重い病気を患っていた。

その病名を知りたくて、その騒動の頃おじさん宛てに手紙を出したことがある。

 

私の病気を悟られないよう注意して、

あなたと母のことは、いつかの電話を受けた時から承知している。

が、ずっと誰にも言わないでいたこと。

そして、この手紙のことも誰にも告げないことを約束して。

 

私が何十年も誰にも言ってないことで私を信用してくれた。

尋ねていないことまで答えてくれた。

 

母とそのおじさんは、私が知るずっと前から付き合っていたらしい。

私は、夕ご飯の後、自室にこもってラジオに夢中だったので気づかなかった。

 

田舎の古い家にありがちだが、私の家は、6畳の部屋が2階と合わせて10部屋、それに食事部屋と広い土間の炊事場、農機具置き場と農作業場を兼ねた広い納屋が三部屋、ちょっとした中庭とそれに面した蔵もあった。

 

駐車場を兼ねた庭も広い。車なら数台は余裕で止められたと思う。

反対側には観賞用の庭もあった。

その奥に母の部屋がある。

 

父は入退院を繰り返していたし、夕ご飯の後はそれぞれ離れた自室にこもり、母は食事の後片付け、遅くまて縫い物をしてると誰もが思っていた。

 

伯母の家でもあるおじさんの家は、車で10分程度と比較的近くにあり、地域の世話役もやっていたので、夜ちょくちょく出かけても誰も疑わない状況にあった。

身体の弱い父に代わって、休日や夜通しの農作業でうちにも頻繁に出入りしていた。

 

母は、不本意な結婚にもかかわらず、家計を支え、三世代に加え小姑を含めた大家族のお三度、農業、酪農をやっていた時期もあり、朝早くからの牛の世話。昼間は外に出て働き、夜は内職を兼ねた縫い物をしていたり、殆ど病気もせず、とにかく元気な働き者だった。

 

 

そんな頑張り屋の母と身体の弱い父に代わって出はいりの多いおじさんが恋仲になるのはごく自然なこと。 

 

が、決して許されない恋でもあった。

 

この騒動で二人のことが知られることになり、

しかし、悪く言われたのは母ばかり。

離れた町で暮らすことになったのも、結果的に一番の悪者にされてしまった。

 

一方おじさんの方は、多少の影響はあっただろうが変わらずあの町で暮らしている。

悪い噂も流れて来ない。

 

もし、年下の男が金目当てだったとしたら、本当に母を心配して二人の仲を割こうとしたのだろう。

 

 

恋愛は対等だと思う。

母だけ悪者にされたことに違和感がある。

[10]妹からのメール

妹の旦那は、思いのほか亭主関白だった。 

妹は甘えん坊のところもあり、旦那様に頼りきっていたし、稲作のわからない事は、旦那様が母やおじさんから伝授してもらっていた。

 

地域の奉仕活動にもよく参加し、とにかく真面目で近所からの信頼も厚く、

気がつけば、よそから迎えた婿さんではなく、母との関係も本当の親子のようで、親戚中からも頼りにされていた。

 

子孫も繁栄し、穏やかな空気がこのままずっと続くと思っていた。

 

 

 

 

あれから何年経っただろう。

父が亡くなって数年は経ってたと思う。

 

夫が仕事帰りに郵便受けの中に妹の旦那様の走り書きのメモを見つけた。

妹夫婦は、うちの詳しい住所や連絡先を知らない。

最後にうちに来た時、8歳くらいだった甥っ子にだいたいの場所を聞いて、探して訪ねて来たのだろう。

 

私は、すでに喋り辛くなっており、不意のインターホンには出ないでいた。

 

電話をくれ、とあったが、今の私の声を聞かすわけにはいかない。

携帯アドレスを記した電報を送った。

 

翌日すぐに妹からメールが届く。

何度も読み直すもなかなか読む解くことができない。

 

 

要約すると、

母の家に年下の男が出はいりしていると。

しかも、その男は金目当てとの噂あり。

 

その噂を聞いたかつての(と思っていた)愛人であるおじさんが中に割って入り、揉めている。要は三角関係。

 

母は70歳代後半。おじさんは80歳代後半。

年下の男…と言っても、やはり高齢者。

 

妹夫婦の耳にも噂が入ったが、妹に言わせると80歳近くのばあさんのすることと思えず、ただの噂と相手にしていなかった。

 

母は、噂を聞き、在宅中も家のそこら中に施錠するようになった。

いつもは、妹夫婦がいつでも出はいりできるよう開け放してある。

  

不穏な空気を感じた妹夫婦は、あくまでもただの悪い噂と信じて疑いを晴そうと母の顔を見に行った。

 

すると、隠れるような場所に見知らぬ車が止まっていた。

妹の旦那は、一箇所だけ人ひとり通れる破れた壁があるのを知っていた。母は知らない。

そこから妹夫婦が入り、現場を見て、本当のことを知ることになる。

 

メールには、その年下の男との生々しい現場の様子が描写されていた。

 

妹夫婦は激怒し、叱責・怒号の中で、おじさんとのことも言い訳する下着姿の母。  

半裸状態で逃げる年下の男。

騒ぎを聞きつけて例のおじさんも加わった。

 

その夜は大騒動になったらしい。

怒りのおさまらない妹夫婦が翌日すぐに私の家を訪ねて来たという訳だ。

 

あの時、お姉ちゃんが言ってたことは本当だった。ごめんなさい、ごめんなさい…と何度も謝る妹。ずっと騙され続けていたと。

 

 

 

 

あっという間に親戚中、近所にまでその話は広まった。

 

思ってたとおり、いやそれ以上の騒ぎになった。

金目当てと言われた母の年下の男は、その後消息不明となり、母もこの町にひとりで暮らせないと実姉を頼り、離れた町でアパート暮らしをしているという。

 

妹家族のことも噂は尾ひれをつけて広まり、針のむしろ状態だったが、ここでこの町を逃げては嫌な噂、間違った情報を認めることになる。

妹家族は何も悪いことはしてない。堂々としてればいいと親戚中を味方につけた。

 

 

[9]父から受け継いだもの

40代半ば頃、異変に気づいた。

手すりの無い階段を降りることができない。

他に問題はないので特に気にしないでいた。

 

しばらくして、早足で歩くことに違和感を覚え、立ち上がりに人の手を借りるようになり、念の為に軽い気持ちで通勤途中の病院へ立ち寄った。

 

 

いくつかの質問を受けた後、レントゲンやMRI検査を受けることになった。

 

 

医師から告げられた病名は「脊髄小脳変性症

小脳が萎縮し、体幹(運動)機能に影響を受けると。

 

すぐに大きい病院の紹介状とレントゲン写真を手渡された。

 

紹介された大きな病院の担当医師は、出勤日と予約の関係で診てもらうのは何日か先になるとのこと。

 

 

その間、私のしたこと。

脊髄小脳変性症⁈何それ?聞いたことない。

何軒も大きな書店や図書館を巡り、その病名を調べた。

・いずれ歩けなくなり、寝たきりになる。

・呂律が回らなくなり、喋れなくなる。

・しかし、その進行は緩やかである。

・完治することは無いが、薬でその進行を遅らせることはできる。

・国の特定疾病、難病に指定されている。

・紹介された医師はこの病気に権威を持つ名医らしい。

 

調べているうちに、実際この病気になった人の闘病記が本となり、映画やドラマになっている事も知った。

しかも、ドラマは大ヒット作となり、主題歌もよく聴く歌だった。

1リットルの涙

私は、お涙ちょうだい的なものは苦手で避けていた。

タイトルは聞いたことはあるが、内容は知らなかった。

一気に本を読み、DVDになった映画もドラマもレンタルで借りた。

 

そして、一番大事なこと。

・原因は不明だが、一部遺伝であることも研究されている。

そういえば、祖父にも父にも「1リットルの涙」と同じ症状があった。

そして、私にもその兆候が現れ始めている。

 

同じ症状の父の妹になる叔母が本を出しているのを思い出した。

急いでその本を探した。

 

すぐ見つかった。

裏表紙に著者のプロフィールが記載されている。「脊髄小脳変性症」を患っていると。

 

叔母は大きな病院の脳神経内科に罹っている。

叔母が嫁に行ったあとに祖父や父がこの病気を発症した為、たまにしか家に来ることがなかった叔母はまさか同じ病気だなんて思わなかったのだろう。

実際、祖父は酒の飲み過ぎ、父は小さい頃から他の病気を患い、この病気はその影響と思われていた。

当然、2人とも大きな病院で調べることなどしていない。

祖父に至っては、この病気の存在すらわかっていなかったはず。

 

この病気の遺伝についても調べてみた。

1/2の確率で遺伝する可能性があると。

 

私には子供がいない。

妹は何人もの子宝に恵まれている。孫までできたばかり。

 

妹とは疎遠になっているが、甥っ子姪っ子が小さい頃、家に来たことがあり、とにかく可愛いかった。

 

もし1/2の確率なら、私が病気を引き継いで良かった、と心からそう思う。

 

 

 

叔母は遺伝であることを知らずに公表したのだろう。

 

もし、その子供が遺伝であることを知ったら、

いとこに当たるその子は、男の子ということもあって、うちには殆ど顔を出していない。

なので祖父や父の症状を知らない。

 

 

その子、すなわちいとこも、甥っ子姪っ子も今は幸せな家庭を築いたり、年頃の子もいる。

不安を与えてはいけない。 

 

どちらにしても、親族に心配や不安を与えることになる。

 

私は、この病名を隠すことに決めた。

幸い、その頃は親きょうだい、親戚とも疎遠になっていた。それに拍車をかけることになる。

わずかに続けていた年賀状もやめた。