[8]母の懺悔

母には、おじさんからの電話に出てしまったことも、伯母から電話がかかって来たことも、何も言わないでいた。

何事もなかったように、いつも通り事務的な会話だけ交わす日々を送っていた。

 

何がきっかけだったか、母と激しい口論になった。

「問い聞き」がどれだけ相手を傷付けて、どれだけ恥ずかしい思いをしてると思う⁈

自分たちの立場がわかっていない!

自分は結婚に失敗した上、なさぬ人との逢瀬をこっそり続け、私に同じように家名を残す為だけの不本意な結婚を求めるのはおかしいと言い争っていた。

あの日の電話のこと、私も伯母も気付いていることを吐き捨てた。

 

それでも母はシラをきり、数々の言い訳をしてくる。

その激しい声に驚いて2階の自室から降りて来た妹に気づかなかった。

 

「そんな事あるわけないじゃない!お姉ちゃん頭がおかしいんじゃない⁈」

 

 

 

 

その日から何年か経った頃。

私が一人暮らししている部屋を訪れた母がポツリと言った。

「とうちゃんに悪いことをした」

 

父に介護が必要なった頃だった。

母は父の介護に献身的だった。

まるで今までの裏切りの日々を取り返すように。

懸命な介護が続いた。

それは10数年にも及び、自治体からも表彰されるほどのものだった。

親戚からも絶対的に信頼を得ていた。

 

私も、ある意味ほっとしていた。

[7]電話

一家に一台の固定電話しかなかった頃、

うちの電話は納屋で農作業してても着信音がわかるよう、居室と納屋の中間にあたる炊事場に置いてあった。

 

その夜、私は2年前に卒業した高校の友達からの電話がかかってくるのを、電話の前で待っていた。

 

時間を決めて着信音が鳴ればすぐ受話器を取り、こっそり話をするため。

…というのは、友達との長電話を叱られたばかりだったからだ。

 

約束の時間に目の前の電話が「ジリ…」となった。

咄嗟に受話器を取ったが、聞こえて来たのは友達の声では無かった。

それは、凄く聞き覚えのあるおじさんの声だった。父の姉の旦那様。

 

少したじろいだような声で「おお、元気か?いや大した用では無い。又電話する」と言って切れた。

直後にかかって来た友達と又長電話をしてしまった。

その夜、いつにも増して火がついたように激しく叱られた。「誰が電話代を支払っていると思う‼︎」と。

 

 

それから、何日経ったろうか。

夜更けに電話が鳴った。

電話のそばで皿洗いをしてる筈の母も電話に出ない。

しょうがないなぁと重い腰を上げ受話器を取ると、それは父の姉になる伯母さんの声。

少し焦ったような声で「お母さんいる?」と。

私は瞬時にその現状を察知し、

「今、お風呂に入っている」と嘘をついた。

 

 

このことを知ったら、おばあちゃんが悲しむ。

親戚が知ることになれば、天地がひっくり返るほどの大騒動になる。

 

このことは、墓場まで持って行こう。

そう誓った夜でした。

[6]結婚なんかしないと誓った日

それは22歳の時だった。

海で出会った彼と恋愛真っ只中だった。

寝ても覚めても彼のことばかり考え、仕事で嫌なことがあっても、忙しくて大変でも彼を想うことで頑張れた。

 

しかし彼は、尊敬する父親の事業を引き継ぎ軌道に乗っていた。

私の親の求める人とは遠く離れた人だった。

もし、あの時のように身辺調査が入れば、両方に反対される。絶対家族にバレたらいけない。

 

 

 

少し離れた町で暮らしていたが、出来るだけ時間を作って会っていた。

 

 

そんなある日の夜、時間に正確な彼が約束の時間になっても現れない。

「ごめん、ごめん」とやっと車で現れた彼は、必死で私を楽しませようとしてくれていた。

 

暗い車の中、彼の顔色の悪さを気付かなかった。

突然彼は苦しみだし、慌てて呼んだ救急車は夜中でもあり、あまり設備の整っていない町の小さな病院に連れて行った。

 

たった3日の患いで遠い手の届かないところにいってしまった。

2日前に「具合が良くなったら電話する」と言ったきり。

 

私は突然、彼のいない世界に突き落とされてしまった。

 

車の中では、渡哲也の「みちづれ」がかかっていた。

「…決めた、決めた、お前とみちづれに」

 

 

 

気がつくと病院の一室だった。

わからない、彼のいない世界なんて考えられない。生きている意味がない…ということまでは覚えてる。

残ったのは、もぬけの殻になったこの体と、変な町の噂だけ。

 

荒れた。

何をするにも無気力になった。誰にも心を閉ざした。

夜な夜な遊び呆けていたと思う。一瞬でも我に返ると壊れてしまいそうだったから。

 

周りの皆んなが結婚していく中で、私は一生結婚なんかしないと思った。

 

 

家族は何も知らないでいた。

益々私は、家族から厄介者扱いされていた。

2年後、家を出ていくことになった時も、

妹の結婚も整い始め、妹が家を継ぐことも決まり、やっと厄介者が家を出ていってくれるとホっとしていたのだと思う。

 

 

 

しばらくして、やっと落ち着き、30歳を過ぎて結婚の報告した時、派手な結婚式や披露宴はせず、旅先で2人だけの結婚式を挙げると伝えると「そうするといい」とあっさりした返事が返ってきた。

 

ホテルなどの結婚式場で大勢の人を呼んでの結婚披露宴を行うのが当たり前の時代だった。

 

どうやら、とっくに私は嫁に行ったことになっていて、今更結婚式を挙げるなんて話が違うことになり、母にとっても好都合だったらしい。

[5]妹の思い

何も話さなくなった私に業を煮やした母や親戚たちは、妹に方向転換した。

 

偶然にも、妹とお付き合いしていた男性は、長男でも無く、農業にも拒みも無く、むしろ同じような農家育ちで稲作に馴染みがあったようだ。そして機械いじりが得意という。

 

しかし、それまで次女という自由な立場で家名を継ぐことなど一切考えてなかった妹は、重い責任を押し付けられたという気持ちが大きかったようだ。

 

高価な農機具の購入資金に追われ、兼業になるのを余儀なくされ、しかも身体の弱かった父は定職に就けず借金まみれという現実を知っていたのもあると思う。

 

土曜日も日曜日も大型連休も無く、最高に気候のいい時期に旅行にもレジャーにも行けず、自然災害に遭うこともよくあり、本当に大変だということも知っている。

 

それを秘密主義の姉のせいで、突然押し付けられたわけだ。

 

その点では申し訳なさもある。

私は、遺留分を含め相続の一切を放棄する手続きをした。

家庭裁判所での手続きの中で「この辺りは開発が進んでいて、今後土地が高騰する可能性があります。それでもよろしいですか」と念を押された。

「それでもいいです。」と返答して実印を押した。

 

最終的に、妹はその彼と結婚し、文字通りスープの冷めぬ程度の距離の別宅に住み、残った土地と稲作を受け継ぐことになった。

 

 

もともとの性格の相違、私は改革派、妹は保守派。

そういう点でも仲の良いきょうだいとは言いがたかった。

 

母の言うことに忠実な妹に対して、母が何かにつけて言った「お姉ちゃんのようになりなさんな」という言葉が更に亀裂を生んでいたと思う。

 

[4]秘密主義

男子が生まれなかったわが家。

長女として生まれたわたしは、婿養子をもらい家を継ぐ、家名を残すというのが私の役目だった。

おばあちゃん子だった私は、祖母と離れて暮らすことなど全く考えられず、ずっとこの家にいるものと思っていた。その後の影響など知る由も無く。

 

 

年頃になった頃、

ちょっとでも男の人とお出かけしようものなら、私の知らないところで相手方の身辺調査が始まっていた。

 

長男ではないか、どこに住んでいるのか、職業、サラリーマンなら転勤族ではないか、宗教、差別にあたいする人が親族にいないか。

当時は「問い聞き」といい、親類の伯父・伯母たちで行われていた。

プロではないので相手方にもすぐわかる。

 

あとでそれを知り、私もショックだったが、相手のプライドをどれだけ傷付けただろうか。豊かで華やいだ時代は、とっくの昔に終わっていて、自分たちは今どの位置・立場にいるか分かってないことに腹が立った。
知り合ったばかりで、結婚の「け」の字も出ていない。私自身が相手のことを何も知らないのに。

 

それを知ってから、事務的なこと以外一切家族に喋らなくなった。

秘密主義と言われた私のはじまり。

 

家名を残すためだけに一緒になった会話の無い両親のようになりたく無い!という思いから、婿養子を貰って名を残す…という結婚はしたくない!という気持ちも大きかった。

 

祖母だけは、そんな私の気持ちを察して静かに見守ってくれた。

 

 

 

[3]父の宿命、母の宿命

長男として生まれた父は、やはり家を継ぐ立場にあった。生まれつき身体が弱く、年頃になってもなかなか縁談は無かった。

 

そこで白羽の矢が立ったのが、祖母の姉の娘である私の母。いとこにあたる。歳合いもちょうどよい。

 

 

母にとって、いとこである父の家の事は良く知っている。

苦労は目に見えているが、母親の言う事に逆らえない。

 

嫌で嫌でしょうがなかったのだが、母親を困らせたくないから泣く泣く承知したのだろう。

 

実際嫁いでみると、社交家の義父・働けない夫故借金まみれ、手作業の稲作、更に実権を握っているのは、夫の父と姉。

その苦労は想像をはるかに超え、度々泣いては実家に帰っていた。

 

私が幼い頃、度々母に連れられ母方の祖母の家によく行っていたことでも、それがわかる

 

 

 

[2]わが家の歴史

父は長男として生まれた。その地域では割と大きい稲作農家。

祖父の代までかなりの大地主の名家だったらしい。

父のきょうだいに女が多く、一人嫁に出す度に一つ山を売り、一つ田んぼを売り…と土地が無くなっていったと聞いていた。

 

違った。

祖父は社交家であり、地域の議員でもあった。

しょっちゅう人を呼んでは大盤振る舞いしていた。

人徳もあったかもしれないが、父の代になる前に区画整理が行われても50代で歩けなくなっても大勢の人を呼んで飲み食いさせていたらしい。

 

わたしの生まれた頃には、かなり底をついていたのだが、華があり豊かだった頃のプライドだけは残っており、父が身体が弱かったせいもあってわたしが物心ついてからも、いくつかの土地が人手に渡った。

 

祖父が社交家であったことは、祖父が亡くなってわが家で葬儀をあげた時、その凄さを知った。

家に入りきれない、物凄く大勢の人が集まったのだ。

 

人徳だったこともうかがえる。

祖母から聞いた話。当時、差別意識が強く、懸命に働いても食うに食えない人も呼んで皆んな区別無く飲み食いさせていたと。

そういうところは尊敬できると言っていた。

 

当時は家で葬儀や結婚式をあげるのが、当たり前だった。祖母や母は大変だったと思う。

 

祖母は3人目の嫁と聞いている。

前の2人はその大変さについて行けず、すぐに結婚を取りやめたのだと思う。

 

長男が家を継ぐのが当たり前、それどころか必須の時代でもあった。