[2]わが家の歴史

父は長男として生まれた。その地域では割と大きい稲作農家。

祖父の代までかなりの大地主の名家だったらしい。

父のきょうだいに女が多く、一人嫁に出す度に一つ山を売り、一つ田んぼを売り…と土地が無くなっていったと聞いていた。

 

違った。

祖父は社交家であり、地域の議員でもあった。

しょっちゅう人を呼んでは大盤振る舞いしていた。

人徳もあったかもしれないが、父の代になる前に区画整理が行われても50代で歩けなくなっても大勢の人を呼んで飲み食いさせていたらしい。

 

わたしの生まれた頃には、かなり底をついていたのだが、華があり豊かだった頃のプライドだけは残っており、父が身体が弱かったせいもあってわたしが物心ついてからも、いくつかの土地が人手に渡った。

 

祖父が社交家であったことは、祖父が亡くなってわが家で葬儀をあげた時、その凄さを知った。

家に入りきれない、物凄く大勢の人が集まったのだ。

 

人徳だったこともうかがえる。

祖母から聞いた話。当時、差別意識が強く、懸命に働いても食うに食えない人も呼んで皆んな区別無く飲み食いさせていたと。

そういうところは尊敬できると言っていた。

 

当時は家で葬儀や結婚式をあげるのが、当たり前だった。祖母や母は大変だったと思う。

 

祖母は3人目の嫁と聞いている。

前の2人はその大変さについて行けず、すぐに結婚を取りやめたのだと思う。

 

長男が家を継ぐのが当たり前、それどころか必須の時代でもあった。